地に足をつけない
筋骨隆々としていたわけではないが、血気いうものがそれなりに盛んな頃に私は、どこでもかしこでも踏ん張っていた。
踊りを踊るときには、地下足袋かはだしでなければいけないと信じていて、ピタリと根を張ったように踏ん張れることを自慢にしていたし、やりかけた仕事は、例えご飯の時間になったとしても、区切りがつくまでは、決して手を休めることなく続けたものだ。
そういう姿勢こそが、踏ん張っていて、腰が座っている証明だと考えていたし、かっこいいと思ってもいた。
しかし「あなたって、とってもいい人ね」というセリフが、二人のいい関係を暗示する言葉ではないことがわかる年齢が来るのと同様に、ヒアルロン酸が欠乏すると膝がどうなってしまうのかが分かる年齢というのも来る。
私がどういう人なのかを表す「とっても」が、実は「どうでも」と、あのこの内心では同義語だと気付いてしまった時、膝に力が入らなくなり、その場に泣き崩れる。
映画やドラマなどでは、こういった場面で、雨が降ってきたりする。
夢と自信しか持っていない主人公は、もちろん傘などという、卑怯にも自分の範囲だけを降雨から守る道具を持ったりはしていない。
雨降らば降れ風吹かば吹け、あの子のことしか目に入らない。
あの子は振り返らない。
自分にもあったと思いたい青春のひとコマ、感情移入できる場面だ。
あの子との縁が切れる事と比べるわけではないが、ヒアルロン酸が切れるどうなるか。
膝に力を入れようとするだけで、奇妙な声を発して、威厳もろともその場に崩れ落ちる。
膝が痛いくらいで同情や感情移入は望めないので、膝に薬液注入をしてもらいに行くのが関の山だ。
そんなことで、踏ん張りどころで踏ん張れず、踏ん張る事の不利益に気付いた私は、舞台では白足袋、お稽古は靴下という踏ん張ることのできない足ごしらえでこれからの人生を歩んでいくことに決めた。
踏ん張れないため不安定になるかと思っていた踊りや太鼓は、床や地面など、状況に合わせて速度や強さを加減するようになり、その場にあったことを探すようになった。
無理しないから気持ちいい。
今まで、これはこうと決めてかかっていた事柄が、こうじゃなくてもいい、ああでもいいし、そうでもいいと分かって肩の力がとれた。
氷の上を滑っているとき誰も踏ん張ったりしない。
そのまま身を任せるのだ。
自分がとってもいい、と思っていることが、実はどうでもいい事だった。